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工房うるわ(URUWA)の石つれづれ

採集から加工販売まで行う管理人の石(鉱物)あれこれ
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日本最大の大珠

現在見つかっている最大の翡翠製の大珠は
大正末~昭和初年頃、富山県氷見市の朝日貝塚の道路拡幅工事で出土した
縄文時代中期の鰹節形大珠とされています。

ネット検索でもすぐ画像が上がってくると思いますが
長さ15.9センチメートル、幅4.7センチメートル、重量471グラムで
とても丁寧に整形・研磨してあるものです。

その大珠を写真で見たときに美しい形に心を奪われ
いつか実物を見てみたいと思っていました。

数年前、糸魚川を訪れた際にヒスイ採集を早めに切り上げて
富山の埋蔵文化財センターまで車を走らせたことがありましたが
臨時休館中でがっかりとした思い出があります。
ただこの大珠は個人蔵でそもそも展示されているものではないようです。

そんな朝日貝塚出土の大珠と同じスケールの大珠を製作してほしいという依頼がありました。
依頼して頂いた方が学芸員に実寸を問い合わたところなんと厚さは3.8センチあるという事でした。
思っていたよりずっとふっくらとした形状で驚きました。

さて制作を開始したのですが
まずそれだけの大きさで制作可能な翡翠を切り出すのが大変でした。
そして翡翠は硬いので削るのに大変な手間がかかりました。

ただ少しづつ形が整っていくに従って
そのふっくらとした形に込められた縄文の人の心に私の心も磨かれていくように感じました。

「豊かでありたい。」

(おそらく縄文の人の想う豊かさとは利己的なものではなく
  生きるために必要な糧が与えられ、仲間とともに平穏に暮らしていくことだったのではないでしょうか?)

そんな祈りは現代人にももちろん共通なものでしょうが
死がより身近な中で生きていた縄文の人にとっては
より真剣で実体的なものであったことでしょう。

そんな祈りが大珠の形に体現されているように感じます。

さて話は変わりますが
先日、なぜかYou Tubeのオススメに出て来たので
百歳を過ぎてなお制作を続けている美術家・篠田桃紅の過去のテレビ番組をみる機会がありました。

彼女は「自然の中にいるといかに人間というのは傲慢なのかを思い知らされる」
と語っていました。

芸術という、常に己を省みることが必要な世界に身をおきながら
しかも百を超えた人がそういうのだから
私のようなものは自分が傲慢でないのではなく
傲慢であることにさえ気づかず生きているということなんでしょう。

可憐な富士桜を愛でる篠田さんに
インタビュアーがお花は可愛いですか?と尋ねると

「可愛いと思っているのは人の傲慢かもしれない。
もしかしたらお花の方が人間を可愛いと思っているかもしれないね」


こういう感覚はおそらく縄文の人の感覚に近いのではないのかなと思うのです。

人は道端に転がっている石ころ1つ創ることはできません。
いわんや美しい翡翠をや、です。

昔読んだ聖書に
「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」
そんな一言があったことを思い出します。

この言葉は人の栄華を否定しているものではなく
その栄華の源が全て自然(神)の創造物であることを感じ取れる謙虚さと
野の花の美しさの背後にある自然の無限の豊かさを見る目があるかどうかの問いでしょう。

西洋のキリスト教的な文化は自然を畏れる心を基礎としながらも
自然と調和できない人の曇った部分=罪の自覚が強調されたことで
神は絶対的な善の存在として人と分離され
逆にその反動からか自然は支配的すべき対象として認識される傾向に進んだようです。

しかしおそらく縄文文化が基底となっている日本では
キリスト教が生まれたような荒野でなく
自然の恵みが豊かであったことも影響して
神と自然は一体で八百万の神として広く遍く存在とされ
そしてその神(自然)と人との関係は大らかで不可分なものとして進んだようです。
やんちゃだった素盞嗚尊が色々と悪さをしながらも
立派に成長して行く様などを古事記で読むととても親近感が湧きます。

そのように豊かでユニークな伝統のある日本の地に生まれたことを嬉しく誇りに思いますが
今あることを受け入れ、許し、気持ちを改め、そして隣人と仲良くやって行くことは
世界のどの宗教であっても目指すべき共通の姿ではないでしょうか?

完成品は載せませんが開眼前の写真のみ紹介します。
こんな時代ですがせめて心だけは豊かに生きていきたいものです。

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勾玉のネーミングについて

勾玉を作られる作家さんは色々といらっしゃって
素敵だなと思う方もいるのですが
私は誰か他の人の形をまねしようと思ったことはあまりないです。

原石の模様を眺めながらなるべく原石を生かすにはどうしようかなと考えます。
かっこいい言い方をすれば石との対話しながら形を決めています。

それはある意味縄文人に近いのかもしれません。

古の勾玉や大珠を見ていると彼らはそれほど形にこだわっていないように見えます。
翡翠は貴重品であり、おそらくその色や質感が重要であって
原石の形をなるべく生かすことが主眼におかれていたのではないかと思います。
もちろん今と違って加工が容易ではないことも大きな理由でしょうが
自然を支配しようとするより自然に逆らわずに生きようとする
縄文人の大らかな感性を感じます。

日本の翡翠のように模様に多様性があるのを加工するにあたっては
最初に形ありきで製作するよりも
原石に心を沿わせるような大らかな気持ちで作った方が楽だと思います。

ただ縄文人の大らかさと言っても
縄文土器を見ればわかるようにその感性は決して未熟なものではなく
形の不完全さを心の領域で補えるだけの奥深い想像力があったことでしょう。

その奥深さを映すように勾玉という形は様々な形を許容するようで
私もその時の心の状態に導かれ、また原石の個性に導かれ
様々な形のものを作ってきましたが
特徴的なものについて名前をつけてきました。

生まれたばかりの赤ちゃんのような丸みの
"まるまがたま"

まるいものを可愛いと思い、慈しみ育もうとする気持ちになるのは
おそらく人間の本能なのでしょう。
自分自身も1つの丸い受精卵から始まったことをどこかで覚えているのでしょうか?


ふっくらとしていて柔らかな丸みのある
"ゆるまがたま"

ユルいという言葉が市民権を得てからしばらく経ちました。
先の縄文人の大らかな感性にも通じる話ですが
"ゆる"という語感は"許す"という言葉にも繋がっていることに
大和言葉の妙を感じます。

そして最近作り始めたのが細身の勾玉です。
なるべく大和言葉の名前をつけたいと思って考えた結果
"すみまがたま"と名付けました。

"澄む"という言葉は"洗練される"という意味を表すこともあるようなので
余計な部分をそぎ落としていって生まれた勾玉のイメージに合うと思いました。


"すみまがたま"は使用している翡翠の量も少なく
お値段も安くできるのでは?と思うお客様も多いかもしれませんが(笑)

私が以前習っていました生け花の世界でも
少ない言葉で多くを語るという引き算の美が一番難しいと言われており
完成に近づくにつれ
僅かな歪みが作品全体に影響を与えてしまうようなシビアな世界になると感じます。

このように石を削りながら
少しずつですが私の心の修行もさせて頂いているのかなと思うのですが
そんななかでも作品に共鳴して頂けるお客様がいらっしゃることを
本当にありがたく思っております。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。






読書「美」

最近「美 見えないものをみるということ」という本を読みました。

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著者は福原 義春さんで資生堂の社長をされていた方です。

主に日本の美意識に焦点を合わせて書かれた本ですが
偏りのない視点でそのツボを押さえているなと感じました。

福原さんの文章が違和感なくすっと入ってくるのは
お客様の立場に立って物事を考える
企業人としての経験と視点をお持ちだからかなと思いました。

人間というのは本質的なところではほとんど変わっていない・・・
だからその原点である自然に触れることで
人は本来持っていた豊かな感性を取り戻せる・・・
そう繰り返し述べられていました。


作り手として座右に置いておきたい文章がありました。

「人間の遠い祖先は、魂を込めて道具を作っていた。ものづくりの分業化が始まり経済社会が誕生する前は、縄文式土器にしても衣服にしても、合理的機能や使用価値を超越した、美しい装飾が施されていたものだ。その頃の道具やものは、作った人のアイデンティティや魂と一致していたのだろうと想像する。
ところが既に書いてきたように、量産化、均一化が進む中で、道具は機能優先、性能優先のものとなり、美しさは二の次になっていった。

いま作られているものに、いいものがまったくないというわけではない。ただ創造されているものの数に比べると、完成度の高いもの、美しさのあるものが少ないのではないかという気がするのだ。」


恥ずかしながらこの本で「衒学的」(pedantic) という言葉を初めて知りました。
「美」とはおそらくその対極にある言葉で

もっと慎ましく
それでいてもっとダイナミックなものではないか?

自らを省みるきっかけとなり
新しい未来が開けたと感じる本でした。

縄文展とイサムノグチ

久しぶりの更新になります!

この間一度糸魚川に出かけまして
加工にも使えるなかなか良い翡翠を発見し
気分良く過ごしております!

さて先日、東京国立博物館の「縄文」特別展と
東京オペラシティー アートギャラリーの「イサム・ノグチ」展を見てきました!

とても良かったです。
縄文の工芸・芸術品は日本各地の博物館等で見学はできますが
これほど多種多様な縄文の美の形が一堂に会する展示というのは
トーハクだからこそできるもの・・・しかも見せ方もうまかったです!

縄文時代の複雑なデザインの耳飾りなどを見ていると
現代に全くひけをとらないすぐれた造形感覚をもった作り手がいた事がわかります。

そういった逸材は日本各地にいたようで
お互いに影響を与えつつ
それぞれの地で特徴的なデザインの土器が作られていたようです。

それはまるで美の可能性を競いあっていたようにも感じました。

あくまでも想像ですが、言語を介さない感覚による感応があったということ・・・
それは非常に高度な文化的な交流活動であったと言い換える事ができるのかもしれません。

それにしても火焔土器などにみられる装飾は圧巻でした。
縄文の作り手の装飾を希求する心は
空間を生き生きとしたものへ変容しようとする心であり
それはまさに「生命」そのものではないかと感じました。

その生命の中には
怖さも喜びもおどろおどろしさも美しさも
カオスとして共存しているようです。

それを素直に表出させることのできたのが「縄文」で・・・

「きれい」であることを求める事で失われてしまった何かを思い出す為に
人は「縄文」に魅かれるのかもしれません。


その後行ったイサム・ノグチ展でみた「北京ドローイング」では
人体を動きのあるエネルギー体としてとらえようとする試みがみてとれました。

形にとらわれることなくそこにやどる生命の力に眼を注いだということは
縄文の人と共通するところがあると感じました。

イサム・ノグチは
「縄文」に魅かれた人物の1人である岡本太郎と親交があったようです。
おそらくその影響もあったのか
焼き物で多数の勾玉で首飾りをつくった作品があったのですが
その作品は私の眼には何かに取り憑かれたように作られたように見えました。

彼は半分はアメリカ人、半分は日本人なのですが
縄文の勾玉を自分のルーツというものを手に取る形で確かめたい・・・
そんな気持ちで夢中になって作ったのかなとも思いました。

一つ一つの勾玉の形はとても稚拙なものでした。
でもそんな子どもが遊びからつくるようなもののなかに
あらゆるしがらみから離れた芸術の本質が孕んでいるのではないか
そう彼は読んでいたようにも感じました。

型にはまった芸術を開放したいという
現代芸術の流れの中にいた彼が「縄文」に眼をむけたことは
ある意味当然のことだったのかもしれません。


私も小さな作り手の1人として
「生命」に眼を向けて制作を続けていきたいです。




遠征から帰ってきました!②

中国・四国の遠征のあと
ほとんど休む暇もなく糸魚川に出かけました!

糸魚川はいつも1人でいくのですが
今回は鉱物の大先輩をご案内する形で
海、川、ミュージアム、お店など一通りまわりました。

翡翠探しにはあまり条件が良くなかったので
自分ではあまり良いものは見つかりませんでしたが
現地のお店等をまわって7キロくらいの翡翠を仕入れてきました。
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沢山買っても使える部分はわずかなんですがね・・・

翡翠は一般のお店には加工用のいいものはなかなか出てこないし
値段も上がってきています!

日本の宝である翡翠は特に大事に加工しなくてては・・・
あらためてそう思いました!

日本海の絶品の魚介類も楽しめて良かったです。
今回は同行者がいたのであまり無茶もしなかったので
色々楽しくいい思い出になりました!

おまけに帰り北アルプスがくっきりと見えて最高でした。
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さて、これからまた少しずつ新作を作りますので
お楽しみに!